Home 虎次郎の生涯 [ 出会い ] [ 出会い ] 2018.04.1 虎次郎の生涯 -念願かない上京、美術学校へ入学。勉学にいそしみ、その才能を開花させていく。そして大原孫三郎との出会い。 明治34年、虎次郎は念願かない絵画修業のため上京しました。それまで画家志望に反対していた祖父母も親戚・知人等の熱心な説得の末、東京遊学を許してくれたのでした。東京では早朝より近郊へ写生に出掛け、昼は東京美術学校(美校、現 東京藝術大学)受験準備のため画塾へ通う、という勤勉な生活ぶりでした。そのかいあって翌年、無事に美校西洋画科選科への入学を果たし、画学生として本格的に西洋画を学ぶこととなったのです。同校に西洋画科が新設されて6年目、主任教授に黒田清輝、助教授に藤島武二らがいました。虎次郎は1年の時、高梁市出身の弁護士 桜井熊太郎により大原家の奨学生に推薦されています。帰郷の折、紹介状と数点の作品を持って大原家を訪ね、そこで1歳年長の大原孫三郎と初めて対面します。虎次郎にとっては、まさに運命の出会いでした。その28年後、日本で最初のまとまった西洋美術コレクションを蔵する大原美術館(倉敷市)は、孫三郎と虎次郎の信頼と友情の結晶として誕生したのでした。 大原家の奨学生として物心両面の支援を受けた虎次郎は、生来の勤勉さもあってか更に熱心に勉学に励み、全国から画家を志す俊英が集う美校でも、本来4年の就学を2度の飛び級により2年で修了してしまい、明治37年に卒業、引き続き研究科に学ぶことになりました。研究科の卒業制作として明治39年に描かれた《登校》は、美校で学んだものを集大成した初期の代表作の一つといえます。 帽子を被り、道端で摘んだのか紫苑の花を持って、ものうげな表情で歩く妹。大きな日傘をさし、うつむき加減でくさむらにとまった赤トンボを見つけた姉。背景の朝日に包まれた緑の木立をやさしい色使いで表現し、人物には抜群の描写力をうかがわせています。光を逆光として取り入れることで、子供の微妙な表情や、皮膚の質感が強調され、穏やかな情感あふれる作品に仕上がっています。明治40年、虎次郎は東京府主催勧業博覧会美術展で華々しい画壇デビューを果たしました。出品作《なさけの庭》は1等賞を受賞し、宮内省御買い上げの栄誉も受けたのでした。この活躍は虎次郎の大きな飛躍の契機となりました。援助者の大原家の計らいで西洋画の本場ヨーロッパへの留学を許されたのでした。 ➔ 第三章「旅立ち」 へ コメント コメント ( 0 ) トラックバック ( 0 ) この記事へのコメントはありません。 この記事へのトラックバックはありません。 返信をキャンセルする。 名前( 必須 ) E-MAIL( 必須 ) - 公開されません - URL Δ
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