明治41年、虎次郎を乗せた「佐渡丸」は、45日間の航海を経てフランス領マルセイユ港へ到着しました。27歳の春のことです。郷里へは「多大の希望を荷うて目的地に安着致し候、戦場に血を流すも覚悟の上に御座候、充分奮闘可致候」と当時の決意を書き送っています。
パリにしばらく滞在し、恩師 黒田清輝に紹介されたラファエル・コランの教室を訪ねましたが1週間通っただけで交渉を断ち、その後は、大都会のけん騒から逃れるように、パリ郊外の小村グレーに移り約1年を過ごしました。グレー村では、友人の画家 斎藤豊作や山下新太郎らと行動を共にし、制作でも切磋琢磨した様子が日記などにもあります。またかつてフランス留学していてグレーを気に入り再訪していたアメリカ人画家達とも親しく交流し、充実した日々を送っていました。作風もかつて印象派を生んだ地 フランスに身を置く中で、明るくのびやかなものになっていったようです。
しかし、何よりもヨーロッパ留学の中で、その画業に大きな影響を与えたのは、ベルギーで学んだ3年間です。
明治42年から虎次郎はフランスを離れベルギーへ旅行しました。当初、東京美術学校時代の知友 太田喜二郎を訪ねて2ヶ月程度旅行するつもりであったのですが、ゲント美術アカデミーの校長ジャン・デルヴァンや太田の熱心な勧めにより、同校で学ぶこととなったのです。
入学して間もないころの日記には「毎日午前中3時間通っているが研究は有益である。勉強は至極面白くできる。今日から夜のクラスへも通学することにした。夜は2時間である」とあり、虎次郎の勤勉で意欲的な生活ぶりがうかがえます。
虎次郎にとっては、モデルの男性をあるがままに描こうというのではなく、モデルを照らす光を画面上に捉えようとした視覚のトレーニングだったと考えられます。そこには当時ベルギー美術界が、光の表現に高い関心を寄せていたことがみてとれるでしょう。
油彩画においても虎次郎は、このころより当時の日本人画家としてはきわめて明るい鮮烈な色彩をキャンバスに展開していきました。
敬愛する師 デルヴァンや親友 太田らとともに過ごしたゲント美術アカデミーを明治45年、虎次郎は首席で卒業しています。
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