Home 虎次郎の生涯 [ 新たなる使命 ] [ 新たなる使命 ] 2018.04.1 虎次郎の生涯 -ヨーロッパから帰国し、独自の表現を模索する日々。そして日本の画学生のために絵画収集を決意。 欧州留学を終えた虎次郎が神戸港に降り立ったのは、大正元年11月のことでした。多くの友人が出迎えるなか、実に5年ぶりに故国の土を踏んだのでした。翌大正2年の正月を郷里成羽町で過ごし、自宅周辺の町並みを《雪のふるさと》に描きとどめています。その年は虎次郎の人生の節目となる年でもありました。4月2日、岡山孤児院の創始者 石井十次の長女 友との結婚式は大原孫三郎夫妻の媒酌で大原邸にて盛大にとり行われました。虎次郎31歳、友23歳。新居は酒津の大原家別邸。閑静な酒津は、以後虎次郎の制作拠点となり、ここで多くの秀作が生まれることになるのです。 大正3年制作の《酒津の農夫》は、虎次郎がベルギーで学んだ光の表現や技法を日本の風土において試みた意欲的な作品です。季節は夏。さくに腰を預け、休息している老人。画面上方には遠くにかすむ帯江銅山の煙突が描きとめられています。背景は細やかな点、または線の繰り返し、情景前方の人物と背後の松やさくは、絵の具を十分に盛った力強いタッチで、描かれています。色の濃淡によって遠近感を表しており、点描や線描を使い分けながら対象物をとらえている手法は、ゲント美術アカデミー(ベルギー)時代に学んだものと思われますが、何より特筆すべきは、筆を使わず絵の具をチューブから直接キャンバスに塗り込めた、という点です。虎次郎は画面をより鮮やかなものにするため、パレットの上で絵の具を混ぜ合わせることはせず、原色をそのまま使ったのでした。太陽がギラギラと照りつける夏の日、見るものにその熱をも感じさせるこの作品は虎次郎の生涯にわたっての代表作といえます。 帰国後数年間はスランプの時期もありましたが、中国や朝鮮半島を旅するなど精力的に動き独自の画風を探求しました。大正8年には、留学時代と帰国後の制作をあわせて展観する個展を母校の東京美術学校(現 東京藝術大学)と大阪で開催し、好評を博しています。そして6月、虎次郎は大原家から命を受け志も新たに、ヨーロッパへと旅立ちます。それは、自らの絵画修業のみならず、「日本の画学生たちにも本物の西洋画を見せたい」という思いから、西洋絵画収集という目的もあったのでした。モネ、グレコ、ゴーギャンらが名を連ねる大原コレクションの始まりでした。 ➔ 第五章「最後の制作」 へ コメント コメント ( 0 ) トラックバック ( 0 ) この記事へのコメントはありません。 この記事へのトラックバックはありません。 返信をキャンセルする。 名前( 必須 ) E-MAIL( 必須 ) - 公開されません - URL Δ
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