児島虎次郎(1881〜1929)は、色彩鮮やかな人物画や風景画で知られる、日本における印象派の代表的な画家です。またモネやエル・グレコなど大原美術館の礎となる西洋美術の収集にも尽力しました。47年という短い生涯の中でヨーロッパに3回、中国・朝鮮半島には4回赴き絵画修業と収集活動を展開しましたが、そこには敬虔な文化交流者としての姿もありました。児島は、旅館・仕出し業「橋本屋」の次男として川上郡下原村(現高梁市成羽町)に生まれました。幼少より画才をあらわし、1901(明治34)年には画家を志して上京、「不同舎」に入塾し画技の手ほどきをうけます。1902(明治 35)年、東京美術学校西洋画科選科に入学し黒田清輝、藤島武二らに師事。成績優秀のため2年飛び級して1904(明治37)年に卒業した後、研究科に進みます。1907(明治40)年には恩師 黒田清輝の勧めで東京府主催 勧業博覧会美術展に《なさけの庭》を出品、1等賞受賞の上、宮内省お買い上げの栄誉を得て、画壇に華々しいデビューを飾りました。翌年大原家の援助により渡欧した児島はベルギーのゲント美術アカデミー留学時代にジャン・デルヴァンやエミール・クラウスらから当地に波及していた印象派の技法や対象の捉え方を学びます。帰国後の1913(大正2)年、社会事業家 石井十次の娘 友と結婚。倉敷の酒津に居を構えます。当時の児島はヨーロッパで学んだ技法や色彩感覚を生かすべく日本の風土との融和を目指し苦悩する時期もありましたが、東洋人としての油彩画を探求するため中国・朝鮮半島へも出掛け見聞を広めるとともに制作にも励みました。
1919(大正8)年、児島は自らの絵画修養と西洋美術の収集のため再度渡欧します。パリを拠点として活動しモネの《睡蓮》やマティス《画家の娘》などを入手、日本へ届けられた作品は児島の手で展覧会に仕立てられ倉敷の地で紹介されました。晩年は帝展審査員や明治神宮聖徳記念絵画館の壁画制作をてがけますが、全精力を傾けた壁画の完成をみることなく、また大原孫三郎と共に描いた美術館構想の実現をみることなく1929(昭和4)年47年の生涯を閉じたのでした。
虎次郎の生涯(全五章)
第一章 「芽生え」第二章 「出会い」第三章 「旅立ち」第四章 「新たなる使命」第五章 「最後の制作」